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ふくの歴史
| ふくはいつごろから食べられていたか |
ふくは6000年も前から食べられている、と言われている。それは縄文時代のことで、日本人はまだ竪穴式住居にすみ、農耕の方法をまだ知らなかった。だから、生きるための糧は、漁労と狩猟で、そのほかには草や木の実を採って食べるのが精一杯だった。
そのころの食生活を知る貴重な遺跡に貝塚がある。貝は、採取が非常に容易で、生でも食べられ、乾燥させてもうまい。つまり、古代人の最も好む食糧の一つであったわけだ。あちこちに多く分布する貝塚からは、約350種の貝類が出土しているといわれる。だが、その中には貝だけでなく、魚の骨や歯なども含まれている。主な種類としては、タイ、スズキ、フク、ブリ、カツオなどがあげられその数も約40種に至るという。
「貝塚の遺物からみると、古代人はかなりふく党であったことが推測される」と書いたのは「ふぐの本」の著者・海沼勝だ。彼はその中で、「タイ、スズキ、ブリ、フグなどは、いずれの貝塚からも発見されている」と、その幅広い分布に注目している。やはり、ふくは日本人によって6千年も前から食べられていたことになる。しかし、それはあくまでも、遺跡による推測だけで、本当はもっと古くから食用されていたかもしれない。
人類の祖先といわれる猿人の起こりは2百万年前で、魚類は4億年以上も昔のことだ。その中で、ふくは3千万年前に発生したものだといわれる。人間の歴史より想像もつかないほどに古くから生き続けているふくではあっても、生存競争に先輩・後輩の秩序なんぞあろうはずがない。どんなに不気味な形態をしていようとも、本能の命じるままに胃袋に納めないではいられない人間のことだ。人類発生と同時に食べられたかもしれない。ところで、下関近郊の貝塚からも、ふくの骨は出土している。安岡の潮待貝塚がそれで、「約2500年前」のものだという。この貝塚からは、ウニの針も出土しいて、下関名物の歴史的実証の地ということができよう。 |
| ふく条例 |
当然あるべきもの、ふく条例。それが山口県にはなかった。むしろ、無いことを誇りにしたきらいもある。東京では昭和24年、大阪はその前年、福岡はかなりおくれて54年にそれぞれふくに関する取締条例をきめている。
ふくの本場山口県で条例制定されたのは、昭和56年3月24日である。その年の夏、県がしらべたところによると、山口県内のふく取扱業者は2924人。最も多いのが販売業で1344人、次が飲食店営業で1056人、そのほかに行商人や加工業者らもいる。これら3000人に近い人々がこの条例によってすべて処理師免許をとることになる。消費者は今まで以上に安心してふくが食べられるわけで「ふくの本場」のイメージもあがるに違いないと期待された。山口県のそれは、正式には「ふくの販売および処理の規制に関する条例」で、他の18都道府県に比べて最も厳しいものになっているという。その主なものに「販売と処理の制限」がある。
販売については、仲買人や魚類販売店、加工業者には、ふくを丸ごと売ってもかまわないが、一般消費者には有毒部分の全部を取り除いて売ること、となっている。また、処理についてもふく処理師でないものがふくを販売処理する場合にはふく処理師が立ちあわねばならぬと規制している。「本場」を自認する山口県のふくが全国ブランドとなっているのはこうした背景があるのである。 |
参考文献/小野英雄「ふくに生きる」 より
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